岡山フィルハーモニック管弦楽団 第49回定期演奏会
~東日本大震災心の復興祈念コンサート~
オネゲル/交響曲第3番「礼拝」
~休憩~
ブラームス/ドイツ・レクイエム
指揮:ハンスイェルク・シェレンベルガー
管弦楽:岡山フィルハーモニック管弦楽団
ソプラノ:秦 茂子
バス:ドミニク・ヴェルナー
合唱:仙台宗教音楽合唱団
山響アマデウスコア
盛岡バッハ・カンタータ・フェライン
岡山バッハカンタータ協会
監修・合唱指揮:佐々木正利
ゲストコンサートマスター:長原幸太
2016年3月4日(金) 岡山シンフォニーホール
ドイツ・レクイエムの最後の審判の場面。いつも冷静沈着で無駄な動きの無いスマートな指揮をなさるシェレンベルガーが、鬼神のごとく体全体で音楽を表現しようとし、それに応えてオーケストラと合唱団が火の玉のような演奏を繰り広げ・・・、感極まってしまいました。
筆舌に尽くしがたい感動、とはまさにこのことで、ブログに感想を起こそうと思いますが、何を書いても嘘くさくなってしまいそうで、当分記事を書かずに寝かせるかも知れません。
恐らく岡山フィル演奏史上、いや、岡山でのクラシック演奏史上、最高の演奏の一つになった子とは間違いありませんし、聴衆もよく集中して聴いていました。何もかもが一体となって、忘れえぬ演奏になりました。私も含めて一部の聴取が合唱団が舞台から去るまで客席で見守っていたのも印象的だったし、ホールの出口から出た時に、合唱団の方々に皆さん「ありがとう」「東北でも頑張って」と声をかけているのも印象的。友人や顔見知りでなくても声を掛け合うような雰囲気が残っていました。
東北からの合唱団は思いのほかたくさんの団員さんが岡山に駆け付けて下さった。同じ合唱指揮者を頂く合唱団とは言え、4つの団体がこれほどまでに一体感のある演奏が出来るものだろうか。驚愕に値します。
1曲目のオネゲルも含めた詳しい感想は後日にさせてください。
このコンサートは、岡山フィルの定期演奏会であったのと同時に、東日本大震災心の復興祈念コンサートの一発目の演奏でもありました。東北ではその開催地の合唱団が主体にメンバー編成がなされることでしょうが、いずれも素晴らしい演奏になる筈です。
できれば、東北3県の皆さんにも、この演奏を聴いてほしい、そう思います。
・2016年3月6日(日)盛岡公演 19:00~
会場:盛岡市民文化ホール
・2016年3月8日(火)仙台公演 19:00~
会場:イズミティ21
・2016年3月9日(水)山形公演 19:00~
会場:山形テルサ
(3月11日追記 震災の犠牲者への祈りを込めながら…)
編成は14型のストコフスキー配置。
しかし、やっぱりオーディオで聴くのとは違いますねぇ・・・、第1楽章の弦5分のオスティナートを軽めに仕上げ、そこに多種多彩な打楽器の色が奥行きを与える。第3楽章の平安・安寧の音楽も岡山シンフォニーホールの反響を上手く利用して、非常に広がりのある音楽になっていました。
後半はブラームスのドイツ・レクイエム。
シェレンベルガー氏の指揮では、一昨年1月のヨハネ受難曲に続いての宗教合唱曲となりましたが、とにかく音楽の巨大さ美しさ、そこに内包される死生観、とてつもない曲です。ドイツ・レクイエム。マーラーの9番やブルックナーの8番よりも凄い曲かも、そう思いました。
バッハなどのカトリック圏の宗教曲は、サンクトゥス、キリエ、グロリアなどといったお決まりの歌詞があり、恐らく聖書に親しみのあるクリスチャンなら、その意味するところの共通理解があると思うんですが、私のようにゆるーい仏教徒である日本人には、聖書の定型文の知識も薄く、なかなかなじめない部分がある。
全体の感想は冒頭でも述べたとおりです。この感動の深さは到底、私の筆力では表現しきれないもので、とにかく凄かった・素晴らしかった、としか表現の仕様が無い。
・開始の部分はかなりノンヴィヴラートを徹底した演奏でしたが、全体としては部分部分で効果的にノンヴィヴラートを使うにとどめていました。シェレンベルガーのタクトは、第1曲では割合快速テンポで始まったものの、バリトンソロやソプラノソロではじっくりと聴かせ、合唱の部分でも呼吸と音楽の持つ鼓動を大事にしていると感じた。オーケストラ曲とはまた違った音楽づくりを見せて頂きました。
・2台のハープをシェレンベルガー夫人と愛娘が担当しました。こんなにハープの音が色々と鍵を握っている曲だとは再発見でした。
・曲名にもなっているように、歌詞はドイツ語です。音源で聴くドイツ・レクイエムは重心が低く威厳があって重々しい演奏が多かった。しかし、この日に聴いたドイツ・レクイエムの表現の豊かさは何だろう!最後の審判の場面ではドイツ語の持つ独特の持つ観念的な発音が、過度に感情に走るのを防ぎ、それが事態の重々しさを一層強調する感じになる一方で、第5曲の「天井から地上への呼びかけ」では、ドイツ語の持つ母性的な響きがたいへん印象的だった。第7曲の最後の場面は、こんなに澄み切った音楽になるのか、とそのまばゆいまでの透明感が強く印象に残った。そういえばマーラーの大地の歌も最後の場面は、たいへん印象深い余韻を残すけれど、ドイツ語にはそういった沈黙を支配する力があるのかもしれない。
・最も印象的だったのは、やはり第6曲だった。この曲の勝負所と心得ていたのは、非常に訓練されたオーケストラトラからも、一糸乱れぬうねりを見せた合唱からも、よく準備されていた形跡がうかがえたが、冒頭でも書いた通り、普段は沈着冷静なシェレンベルガーの、鬼神が乗り移ったような、背中から炎が上がる様なタクト。そのタクトに触発され、オーケストラも合唱団も壮絶な演奏であった。あの時ステージでは何と戦っていたのだろうか?何が乗り移っていたのだろうか?僕にはわからない。東北の皆さんには大変申し訳ないんだけれど、僕の頭に浮かんだのは、阪神大震災後に1か月後に故郷の神戸に入った時に感じた、行き場のない怒りだった。どうしてこんな目に遭わなあかんのや!という理不尽さ。
・そして終局の、なんという光に包まれた音楽であることか!僕はこの瞬間を忘れない。そして、こんなに温かい気持ちで、このホールで音楽を聴いたことが過去に一度だけあった。そのことを思い出していた。
・シェレンベルガーといえばカラヤンに才能を見いだされた。山陽新聞に掲載された岡フィル首席指揮者の週にインタビューでも、「私の中にあるカラヤンの音楽を出していきたい」というようなことをおっしゃっていた。
※ここでの『東京』とは、ある種の記号であって、実際に東京に住む方々を揶揄するものではありません。
