岡山フィルハーモニック管弦楽団第86回定期演奏会
リスト/交響詩「前奏曲」
リスト/ピアノ協奏曲第1番
バルトーク/管弦楽のための協奏曲
指揮:高関健
ピアノ独奏:児玉麻里
コンサートマスター:藤原浜雄
2022年10月19日 倉敷市民会館

今年の秋季シーズンは、筆者にとってまさに至福の連続であった。広響@福山のレンミンカイネン組曲→京響@福山のショスタコ10番に続き、岡フィルが提示したのは、バルトークの記念碑的大作《管弦楽のための協奏曲》(通称「オケコン」)を軸とする、きわめて挑戦的なプログラム。
しかし会場に足を踏み入れると、客席の入りは5割強と、かなり寂しさを感じる状況。Xを見ると西から東から遠征組がいらっしゃったようだが、肝心のシンフォニーホール公演で常連だった岡山市内の、特に高齢層のお客さんが少ない印象。倉敷市民会館も貸し館に徹してきて、我が家に届くアルスくらしき(市民会館を管轄する財団)のDMにも岡フィルのチラシは入って居なかった。私に言わせれば「最近は思うような企画も出せなくなっているのに、同じ岡山のオーケストラ公演を、なぜプッシュしないのか。倉敷のプライドなんて捨てちまえ」と言いたくもなる。倉敷側が共催に入れば客席はもう少し賑わった筈で、それは倉敷にとってもイベントのバリエーションが増えることに繋がるのだが。。。
岡フィルは珍しく、(高関さんと共演した3月定期に続いて)対向配置を採用。1stVn12→Va8→Vc8→2ndVn10、コントラバスを上手奥に8人(ピアノ協奏曲では弦楽セクションが1プルト減)、ティンパニをセンター最後列に配した布陣であった。
特に注目すべきは、チェロ首席の松岡さんがフォアシュピューラーを務め、客演首席に高木慶太さんを迎えたほか、ホルンに日橋さん(読響)、コントラバスに村田さん(京響)、トロンボーンに田中宏史さん(名フィル)を迎えた。近年顕著な楽団の若りを象徴するように、1st及2ndVnに5名の試用期間との表示があった。
また、舞台前方の4列を撤去して舞台を拡張する措置が取られていた。これは、収容人数の問題以上に、音響的な広がりと奥行きを確保するための配慮であったと推察される。
リスト/交響詩「前奏曲(レ・プレリュード)」
この曲、学生オケではよく演奏されるが、プロオケで聴いたのはもしかして初めてかも知れない。標題音楽としての交響詩というジャンルを確立した記念碑的な作品であり、演奏時間17分にも及ぶスケールの大きさは、コンサートの冒頭を飾るにはなかなかハードな曲だ。その劇的なライトモチーフの変奏曲的手法ゆえに、演奏者と聴衆双方に高い集中力を要求する挑戦的な選曲。
それにしても岡フィルの鳴りっぷりよ! 聴衆の度肝を抜くほどの強靭なダイナミズムを伴っていた。残響豊かな岡山シンフォニーホールでの演奏とは一線を画し、倉敷市民会館の比較的残響が抑えられ、楽器の輪郭が鮮明に浮かび上がる音響特性を最大限に活かしたアプローチと感じた。弦五部は重厚なテクスチュアを、管楽器群は剛直な咆哮をブリブリと響かせ、最近このホールで聴いたN響や都響の演奏と比較しても、その鳴りっぷりにおいて全く遜色がなかった。
ただし、その力強い音響がゆえに、金管・打楽器群が大音量で鳴る場面でのハープや木管楽器、高音弦の繊細なパートが完全にマスクされてしまう場面も見受けられた。また、ピアニッシモにおける精妙なニュアンスの表現には、音響の明瞭さゆえの難しさがあったことも事実。
これらの課題はあれど、倉敷市民会館が1970年代竣工のホールとしては随一の音響を備えていることは間違いない。岡山シンフォニーホールの改修が完了するまでの代替の場として、その音響的な優位性は疑う余地がない。この地で高関さんと岡山フィルが示した、剛毅かつ緻密なリストとバルトークへのアプローチは、最近の岡フィルの「爆音オケ」としての面目躍如だった。
リスト/ピアノ協奏曲第1番
のっけからネガティブなことを書いてしまいうが、ピアノ協奏曲は、ブラームスやシューマンの協奏曲のような、ピアノとオーケストラがガッチリと組み合い、重厚なドラマを構築していくスタイルが好きで、リストのPコン1番にはどうも底の浅さを感じていた。例えるなら、ブラームスの協奏曲が野球というゲーム全体の面白さの中で個人技を楽しむ醍醐味があるのに対し、リストはただのホームラン競争のようなもの、と。ピアノソロのヴィルトゥオジティは素晴らしいものの、オーケストラが陳腐に聞こえてしまう点が不満だった。
しかし、今回の児玉麻里さんの演奏は、「リストのPコン1番が、こんな曲だったとは!」と、心から感じさせてくれた。
ステージに登場したときの児玉さんのオーラは凄まじく、岡フィルの若手奏者たちが圧倒される中、藤原浜雄コンマスとは世界の檜舞台で闘った同志のような、深い信頼関係を感じる空気が流れていた。
児玉麻里さんが奏でたリストは、ただの超絶技巧の応酬ではなかった。もちろん花開くようなヴィルトゥオジティはあるのだが、その根底はしっとりとした音色の中に円熟の深い味わいを噛み締めるような、温かい存在感だった。
特筆すべきは、技巧的なパッセージの合間に時折見せる優しい表情の部分。まるでピアニストがエヴァンゲリストのように客席に語りかけるようで、音楽の内奥にある詩的な物語を伝えるかのように響いた。
今回の演奏会で驚いたのは、トライアングルの配置。指揮者の左前、ピアノのすぐ隣という、ソリストの位置に打楽器が配置されてた。これを見たとき、私はすぐにショスタコーヴィチのピアノ協奏曲第1番のトランペットを連想した。
この配置は、かつてリストのPコン1番が、「トライアングル協奏曲」と皮肉られた歴史を逆手に取って、トライアングルという「異質な音」を持つ楽器を一層、際立たせる効果を狙ったものだろう。これは、リスト自身が持っていた「メフィストフェレス」の精神とも繋がるように思う。リストは、自身の凄まじい技巧とカリスマ性で「悪魔的なヴィルトゥオーゾ」という評判を得た際、「そうさ、俺はメフィストの精神を持っている」と開き直った節がある。彼にとってメフィストは、嘲笑的なウィットと社会規範を打ち破る自由の象徴だった。トライアングルの配置は、まさにその「超越的な芸術家の精神」を象徴していたように感じるのだ。『社会主義リアリズム』を芸術の世界にまで求める権力者からの自由や、その風潮を諧謔するショスタコーヴィチと、まさに共通するものがある。この配置を決めた高関さん、恐るべしである。
岡山フィルも、このリストの革新的な精神に応え、トライアングルの福場さんを始め、指揮者の高関健さんのもと、歯切れのいいリズム感と躍動感を発揮していた。児玉さんのピアノとオーケストラが、従来の「対決」ではなく、新しい協奏曲とは異質な色彩とリズムを追求する意図が、微細なニュアンスとなって曲の隅々まで行き届いていた。
アンコールはベートーヴェンのエリーゼのために。これもまた、リストで聴かせた児玉さんのピアニズムを凝縮したような演奏だった。
児玉麻里さんの温かい存在感と円熟した解釈によって、リストのPコン1番は、単なる技巧の展示ではなく、ロマン派から近代にかけての作曲家の「挑戦的な精神」を強く示す、とても素敵な演奏として心に残った。
バルトーク/管弦楽のための協奏曲
メインは、バルトークの「管弦楽のための協奏曲(オケコン)。私がこの曲を生演奏で聴くのはこれで3度目となる。
初めて聴いたのは、たしか中学か高校の頃(記憶が定かでない)、イヴァン・フィッシャー指揮・ブダペスト祝祭管の演奏だった。親父が企業協賛のチケットの余りをゲットしたらしく、公演の2,3日前に突然聴きに行くことになったため、予備知識が皆無の状態で何が何だかよく解らなかったが、とにかくオーケストラが「呆れるほど各奏者が上手い」という印象だけは強く残っている。
2度目は大植英次指揮・大阪フィル。大植さんらしいダイナミクスもテンポの揺らしも激しい展開、音楽の頂点を持って行った終楽章では思わず涙が溢れたのを覚えている。
そして今回、ついに地元・岡フィルがこの大曲を演奏する。長年のファンとしては、それだけで感慨深いものがある。個々の奏者の高度な技量とオケの総合力が試されるこの作品を、地元オケの高水準な演奏で堪能できる。そんな幸せを噛み締めながら、当日を心待ちにしていた。
この日はオール・ハンガリー・プログラムだったわけだが、リストとバルトーク、同じハンガリーの作曲家でも、その作風は驚くほど対照的だ。
前半のリストは、オーストリア帝国の栄華を感じさせるような、華麗で貴族的な「ハンガリー幻想」の世界。対するバルトークは、土着で根源的な民謡を深く追求した「ハンガリーのリアリズム」である。それに加えて19世紀半ばと20世紀半ばという、時代そのものの違いを、二つの異なるハンガリー音楽の魂を通じて体感することもできた。
先週京響でショスタコーヴィチを聴いた直後だったためか、バルトークのこの曲を聴いていると、ショスタコーヴィチと共通する響きが多いな、と感じた。
しかし、その手法は真逆だ。ショスタコーヴィチが短二度や増四度といった不協和音を、音楽の調和に亀裂を生じさせ、崩壊させる手法で使うのに対し、バルトークは同じ不協和音を使っても、それは緊張感の演出であったり、風刺やユーモアの表現であったりする。バルトークの不協和音の使い方は、本当にカッコいい。同じような音楽的語法を使っても、これほど効果が違うのかと唸ってしまう。
この曲は、管弦楽技法があまりにも見事なため、民謡調の旋法が駆使されているのに、どこか都会的な雰囲気を漂わせる。例えるなら、地方に根差した現代アートが、洗練された都会の美術館に展示されているような感覚だ。しかし岡フィルの元々持っている適度な素朴さというキャラクターが上手く作用し、曲に温かみを与えていた。
その題名が示す通り、この曲は管弦楽各パートの見せ場が文字通り協奏曲として展開される。そして、岡フィルの奏者たちのパフォーマンスは本当に見事だった。改めて「岡フィルの奏者たちは本当にすごいや!」と感心した。
フルート首席・畠山さんの第1楽章での流麗なパフォーマンスは、岡フィルのクオリティの高さを決定的に印象づけたし、オーボエ首席・工藤さんの第3楽章のエレジーや第4楽章の民謡風主題のソロは、彼女独特の哀愁漂うピュアトーンで胸を打つ。
クラリネット首席・西﨑さんは八面六臂の活躍。特に第4楽章の行進曲風の旋律に見せた表現力は流石の一言だ。トランペット首席・小林鴻さんの活躍も書ききれない。第1楽章の主部直前や展開部でのピアニッシモのコラールから、大音量の場面まで完璧な演奏。第2楽章の木管・金管のペアによるコンビネーションも素晴らしかった。
こうして見ると、岡フィルの管楽器陣はまさにこれから脂が乗ってくる、あるいは脂の乗り切った奏者が揃っていることがわかる。木管・金管陣がカーテンコール後にホッとした表情でお互いを労う姿も、秋山さんからの「課題」を完璧なパフォーマンスで乗り越えた安堵を物語っていたように見えた。聴衆の一人である私も、どんどんと進化・深化していく地元オーケストラのコンサートに通うのが本当に楽しい。
忘れちゃいけないのは、ハープの松村衣里さん(京響)も先週に引き続き、見事な妙技を披露。これ以上書き出すとキリがない(笑)。
高関健さんの指揮はキレキレで、第4楽章で見せた日本人には演歌のように聴こえる節回しや、トムとジェリーのようなユーモラスな動きに呼応する岡フィルも見事だった。
そして、この曲で一番好きな、バルトークの作品の中でも最も愛する第5楽章:フィナーレ(プレスト)。全楽器の技巧がクライマックスを迎える、爆発的なエネルギーに満ちた楽章だ。ヴァイオリンの息もつかせぬ速さのモト・ペルペトゥオでは、藤原浜雄コンマスがいつもよりも動きを大きくとって、まさにノリノリの演奏。中間部の、まるで宝石箱をひっくり返したような、あのジブリを思わせるファンタジックな瞬間には、金管が輝かしく響き、思わず涙が滲んだ。終盤の壮大なコラール風のクライマックスでも、岡フィルのサウンドは気品を保ちつつも、岡山シンフォニーホールよりも一層凄い爆音で締めくくられた。
少し余談だが、終演後、フライングの拍手こそなかったものの、「ブラボー」を絶叫する熱心な聴衆が一人いた。奏者を立たせる高関さんが、オーボエ、クラリネット、ファゴット、フルート、トランペット、トロンボーン……と、ほぼ全パートを順に起立させていくのに対し、そのブラボー絶叫氏は立つパート全てに「ブラボー!」を飛ばし続けたのだ。会場が生温かい失笑交じりの雰囲気で見守る中、ついにハープの番で絶叫氏が力尽きた様子。「おい、そこもブラボーやろ!」と観客が心の中で無言のツッコミを一斉に入れるような、このホーム:岡山シンフォニーホールの温かい雰囲気が、倉敷市民会館でも再現された感じがたまらなく良かった。
N響や新日本フィルをはじめ、様々な一流オケをこのホールで聴いてきたが、今回のような挑戦的なプログラムはなかなかやってくれない。このホールには世界一流のオーケストラを聴いてきた「くらしきコンサート常連」の聴衆層がいるが、「えっ、岡フィルってこんなに凄かったのか!?」と言わしめるに充分な演奏だったはずだ。
最後に集客に触れてしまうが、こうしてバルトークのオケコンを聴いてみると、この作品はワールド・フュージョンやエスノジャズのご先祖様のような楽曲だと思った。だからこそ、そういった音楽にのめり込んでいる若い世代にこそ、ぜひ聴いてほしかった。
「こういう曲を100年前に作った天才がいて、その楽譜を手がかりに70人からなるプロが破天荒な演奏をするよ、聴きにこない?」と、もっと多くの人に伝えたかった。どうすればこの地元プロオケのコンサートに通う愉悦を伝えられるのか?
2013年シェレンベルガーの首席指揮者就任以来、12年間右肩上がりだった岡フィルにとって、今年1月の秋山さんの逝去以来の常任指揮者不在は徐々にダメージとなっているのではないか。オーケストラにとって常任指揮者がいかに重要かは以前の記事でも触れたが、新しい時代を感じさせる新体制への移行は待ったなしになっていると強く感じた。