前回に引き続き、今回は曲目ごとの感想。
岡山フィルハーモニック管弦楽団 第88回定期演奏会・第2回倉敷定期演奏会
ラフマニノフ/ピアノ協奏曲第2番
ラフマニノフ/交響曲第2番
指揮:尾高忠明
ソリスト:中桐望
2026年5月7日 倉敷市民会館

◯ラフマニノフ/ピアノ協奏曲第2番
楽団員は皆、蝶ネクタイを締めた正装でステージに登場。普段の定期演奏会はスーツにネクタイという出で立ちが多かっただけに、東京公演を見据えて正装にしたという事だろう。聴き手としても、自ずと襟を正すような姿勢になる。
ソリストの中桐さんの装いからもメッセージ性が感じられた。スポットライトを浴びればシックでセンスに溢れた濃紺の色調を放ちながら、ピアノと対峙した瞬間、オーケストラの黒い正装の中に溶け込んでいく。「主役はソリスト一人ではない」という、楽団へのリスペクトと、作品を共に構築しようという意志の表れのように感じたのだ。
拍手が収まってから10秒ほどの間を取り、会場を静寂が包むのを待って始められたピアノの打鍵は「鐘」そのもの。続くピアノのアルペジオも鐘の音が幾重にも重ねていくように感じられる。小味やんこと小味淵彦之さんの解説に、『ロシア正教の鐘は特徴的で、大小さまざまな鐘が組み合わされ独特の音色を重ねていきます』との記述があったが、それを受け、私は学生時代にロシア史の特講で見たビデオテを思い出した。ソ連崩壊直後のモスクワの街並みを映したその映像の中で鳴っていたクレムリンの鐘は、中欧の整然とした鐘の音とは明らかに異なる、無数の倍音が絡み合う「鐘のオルゴール」とでも言うべき複雑な響きだった。こんな感じ。
これなんか、ラフ2のPコンにそっくり(笑)。こういうのって今はyoutubeですぐ出てくるから凄い時代になったものだ。
練りに練って音色を追求した中桐さんの冒頭のピアノは、正にロシアの鐘が持つ重層的なエコーだった。
そのピアノの「鐘のアルペジオ」を襲うように提示されるヴァイオリン、ヴィオラの第1主題の重厚なこと!この第1楽章はオケもピアノもゆったりとしたテンポで陰うつに進んでいく。
オーケストラの編成はサントリーホールでは12型に減らしていたようだが、倉敷では14型。驚くべきは、この種の協奏曲で往々にして見られる「ソリストのためにオーケストラを抑制する」という配慮が、良い意味で排されていたことだ。
第1楽章第2主題は「英雄の調性(変ホ長調)」の筈だが、中桐さんの音楽は常に陰影が帯びる。オーボエやクラリネットら、オケ楽器との対話も切ないほど美しい。
中桐さんのピアノは打鍵が力強いうえにピアノの共鳴を引き出し、芯の強靭さと内声部の透明感を併せ持っている。そのため、オーケストラの総奏に埋没することなく、むしろ共鳴する場面ではピアノとオーケストラとのアンサンブルが分かちがたく結びつき、たいへんな熱量と迫力で客席に迫ってきた。彼女の演奏は、時間軸におけるダイナミズムの構築もさることながら、音の「レイアウト」――空間的な広がりの描き出し方が絶妙であると感じた。
解釈においても、テクニックを誇示するでもなく、ナルシスティックな感傷に浸るでもない。徹底してオーケストラと共に世界観を作り込んでいく姿勢を貫いていた。テンポ設定は、今まで聴いてきた同曲の演奏の中でも極めて遅い部類に入る。それは、濃厚で濃密な音が渦巻く「奈落」へと緩やかに沈み込んでいくような錯覚を抱かせた。これまで派手な演奏に接しすぎて、この曲が本来内包している「怖さ」を忘れてしまっていた。それだけに、中桐さんのソロが一条の光となって差し込む瞬間が本当に美しい。
この曲のピアノ・ソロは超絶技巧の嵐でもあり、ドラマティックでもあるので、技巧を前面に押し出す演奏、あるいはドラマの主人公のようにナルシスティックな演奏、どちらでも『映える演奏』に出来るが、中桐さんはその解釈は取らず、オーケストラとともに徹底的に世界観を作り込んでいく。
単なるセンチメンタリズムでは到底片付けられない、「死の影」や「絶望の深淵」。それは、作曲家が若き日に経験した貴族階級の没落や家族崩壊と深く結びついているのではと思う。
ハ短調という調性、苦悩から歓喜へという構成はベートーヴェンをオマージュしたのだろう(実際、同時期に「運命」という歌曲を書いている)、理不尽に抗うベートーヴェンに比べ、ラフマニノフの病理はより深く、内省的だ。奮い立とうとしては再び絶望の縁へと転落していく、そのメランコリーが緻密に表現されていた。
特筆すべきは、緩徐部分での極めて繊細なアンサンブルである。第1楽章第2主題の純度の高い弱音。そして白眉は第2楽章だ。岡山フィルは本当に繊細なピアニッシモを奏でるオーケストラになった・・・。弦楽器の調べに中桐さんのピアノが絡み、そこに名手たちの木管ソロが色を添える。しかし、それは決して甘いだけの音楽ではない。孤独の深さを噛み締めるような、どこかほろ苦さを伴う美しさだった。
個々の奏者の見せ場も枚挙にいとまがない。第1楽章終結部における高橋さんのホルンソロ、第2楽章で苦悩するラフマニノフを導く天使の声のように響いた木管セクション(オーボエ:工藤さん、フルート:畠山さん、クラリネット:西崎さん、ファゴット:柿沼さん)のソロは、まさにまさに白眉だった。
第2楽章の再現部からコーダにかけて。それまでの迷いが吹っ切れたように前向きな力強さが加わり、ヴィジョンがガラッと変わって、透き通る弦楽器に切なく暖かい 木管のタンギング、そこにピアノが微笑むように応えたとき、 余りの美しさに涙が溢れた。
尾高さんのタクトは、息の長い磨き抜かれた弱音を徹底的に要求する。前半から神経を研ぎ澄ませてきた楽団員には過酷であったろうが、プレトークで語った「充実した練習」の成果は、この極上のアンサンブルに見事に結実していた。
第3楽章は、一転してスケルツォ的な躍動を伴うグランドフィナーレ。尾高さんの徹底したリズムの刻みにオーケストラが完璧に応え、胸のすくようなカタルシスをもたらす。中桐さんのピアノは、抒情性を深層に秘めつつも、太陽の光のような輝かしい躍動感で全体を牽引した。グリーグの協奏曲の第3楽章やバーンスタインのウェストサイド・ストーリーなど、こういう「リズム命」の場面での中桐さんの演奏は絶品である。
自己陶酔を排し、心の襞をえぐり取るようなシーケンスから、一歩ずつ階段を昇るように緊張を高めていく。最後のコーダでの巨大な音のうねりには全身に鳥肌が立った。これ見よがしな虚飾を削ぎ落とした、血の通った人間的なサウンド。間違いなく、これまで実演で接したラフマニノフの中で、最高の演奏。
アンコールは ラフマニノフ(コチシュ編):ヴォカリーズ 。ピアノ協奏曲は青年ラフマニノフの勢いや若さがあったが、この最晩年に作曲された作品に対する中桐さんの内から湧き出す抒情性の奥深さに感動した。枯淡の境地というよりも年輪を経て純化された抒情性。
余談だが、この曲は90年代、岡山・香川のRNC西日本放送のクロージング曲として流れていた。このメロディを聴くと、私と同世代の聴衆は 「もう寝なくては」という眠気と共に、懐かしさがこみ上げて来たのでは?
〇ラフマニノフ/交響曲第2番
前半の中桐望さんと尾高・岡フィルによる熱演の余韻だろう、休憩中のホワイエは吹き抜けの2階から覗き込んでも、興奮と騒然とした熱気に包まれているのがわかった。知った顔がちらほらと見えたため、見つからないように慌ててその場を退散する(笑)。倉敷市民会館は動線が広いパブリックスペースへと誘導される構造のため、人から声を掛けられやすい。しかし、これほど強烈な余韻に満たされた演奏を聴いた後は、一人になり、誰とも言葉を交わしたくないのが本音である(もちろん、信頼するブロガーさんなど音楽仲間と語らうアフター・コンサートは格別だが、社交辞令のあいさつは億劫になる)。そそくさと3階席へ上がる階段下の、まるで穴倉のような死角へと隠れて、後半向け期待を膨らましていた。
この曲には、私自身、色々と思い入れがある。最初にハマったのはプレヴィン・ロイヤル・フィル盤で、中学3年の頃。「これほどまでに美しく、底知れない深みを持った音楽がこの世にあるのか」と衝撃を受け、その後取り憑かれたようにこればかりを聴いていた。
高校から大学時代にかけて、幸運にも3度の実演(大阪フィルで2回、シドニー交響楽団で1回)に接する機会に恵まれ、ますますこの曲の魅力に取り憑かれることとなった。まだ音楽配信など無く、中古ショップでこの曲を見つける度に買い漁るようになる。
因みに私の決定盤はヤンソンス指揮…フィルハーモニア管である。
その後もアマチュアや学生オーケストラによる実演を聴く機会はあったものの、不思議とプロの実演には縁が無かった。尾高・大フィルのコンビを2度も逃し、秋山&広響の公演にいたってはチケットを買っておきながら都合をつけられなかった。気がつけば、プロのオーケストラによる実演としては、実に30年ぶりの「ラフ2」である。しかもタクトを執るのは、かつての「逃した魚」の尾高さん。迎えるのは、我が地元の岡山フィル。これ以上ない最高の布陣によって宿願が叶った。
ラフマニノフがこの大作を完成させたのは1907年、彼が34歳の時である。前半に演奏されたピアノ協奏曲第2番から6年の歳月が流れている。今日、この2つの傑作を生の実演で続けて聴くことで、これまで地続きのロマンティシズムだと思い込んでいた両曲の間に横たわる、決定的な「作風の進化」が見えてきた。
協奏曲第2番は、極めて直感的であり、若いゆえの苦悩の深淵と濃密なセンチメンタリズムが前面に押し出されている。メロディの対比も明快で、聴き手の胸にダイレクトに突き刺さる「映える」ドラマ性がある。それに対して交響曲第2番は、まるで大河のうねりのように、より深く息の長いスケール感を湛えている。一見、情緒的ではあるが、緻密に配置された動機のポリフォニーが複雑に絡み合い、音楽は単なる感傷を超えて、大河ドラマのような壮大な叙事詩へと発展を遂げている。
この進化の背景には、当時のロシアが直面していた歴史的な激動があるのだろう。日露戦争の実質的な敗北、そして首都サンクトペテルブルクでの「血の日曜日事件」に端を発する第1次ロシア革命の勃発である。貴族階級の血を引き、本質的に内省的な芸術至上主義者であったラフマニノフにとって、過激化する民衆の暴動と社会の地殻変動は、精神的な平穏を根底から奪い去る恐怖そのものであった。激動の祖国を逃れるように家族を連れて出国した彼が、辿り着いたのがドイツの古都・ドレスデン。祖国の喧騒から完全に遮断され、ただ作曲のみに没頭できる静寂を手に入れたラフマニノフ。しかしその胸中にあったのは、ロシアへの深い郷愁と、拭い去れない時代の不安感であったろう。彼はその相克を表現するかのように、暗いモチーフを循環形式によって全曲に張り巡らせた。祖国から切り離された孤独な環境ゆえに紡ぎ出された、深淵な瞑想世界を内包した20世紀交響曲屈指の大傑作が書き上げられた。
この曲は往々にして「遅れてきたロマン派」と評され、ラフマニノフ自身が直接薫陶を受けたチャイコフスキーの交響曲第5番との共通性や、ベートーヴェン以来の「苦悩から歓喜へ」というシンフォニーのプロットを踏襲していることが指摘される。しかし今日の実演を聴いて確信したのは、ここには20世紀初頭の社会不安を色濃く反映した、紛れもない「現代音楽的」な空虚感と切り立ったエッジが存在することだ。
もちろん、全曲は陶酔的な旋律に満ち溢れている。第1楽章の第2主題、第3楽章のあの奇跡的なクラリネット・ソロ、そして第4楽章の第2主題・・・これらはラフマニノフという不世出のメロディメーカーにしか生み出し得ない、劇的な音の跳躍を伴った甘美な旋律群だ。華やかでありながらどこか切ないこれらのメロディは、過去のどの作品の模倣でない、驚くべきオリジナリティを持っている。
しかし、この交響曲の本質を捉える上で最も重要なのは、第1楽章の冒頭(序奏)において、チェロとコントラバスという低音弦によって密やかに提示される「シドーシラソラソ」というモットー(循環動機)だと私は思う。ラフマニノフの華やかな旋律が大空へ向かって雄大に跳躍するベクトルを持つものとすれば、このモットーは真逆、「シ・ド・シ・ラ・ソ・ラ・ソ」という、隣り合う音へとしがみつき、躊躇しながらうごめくその音型は、得体の知れない暗い情念が蠢き、油断すれば地の底へと引きずり込まれるような恐怖を孕んでいる。この内省的な4小節の呟きこそ、ラフマニノフの芸術のもう一つの一面なのだ。
彼は晩年の作品(『パガニーニの主題による狂詩曲』や『交響的舞曲』など)において、『怒りの日』のモチーフを執拗に取り入れたが、この交響曲の「シ・ド・シ・ラ・ソ・ラ・ソ」は、その『怒りの日』にさえなり切れない。それはまるで踏み台昇降のように、どれほど足掻いても自分自身を消耗させるだけで、どこにも辿り着くことができない(ホ短調の主音である「ミ」に到達しない)という、構造的な絶望感を内包している。
前置きが長くなったが、いよいよ演奏について触れたい。 今回の尾高&岡フィルのアプローチが凄絶だったのは、これら至高の美メロを人間味あふれる温かいサウンドで伸びやかに歌わせる一方で、全曲に通底する「蠢くようなモットー」を、コントラバス、チューバ、トロンボーンといった低音管弦セクションによって極めて効果的に描き出した点にある。
序奏からして、圧迫感を感じるような重厚かつ壮絶な音楽が展開された。テンポ設定はラルゴというよりもアダージョに近い超スローテンポ。一音一音のテクスチャーが丁寧に濃厚に紡がれていく。その序奏のモットーの不気味さは、後年のショスタコーヴィチの交響曲第10番第一楽章冒頭に似ている。やがて弦・管楽器が激しく音階を上昇させ、ティンパニの凄まじいロールが炸裂するクライマックス。その強大なエネルギーは倉敷市民会館の隅々にまで響き渡り、まだ心の準備ができていなかった聴衆を圧倒した。「今日はとてつもない演奏になる」・・・客席の誰もがそう直感した時点で、尾高さんの思惑通りだったかも知れない。
主部に入るとテンポは標準的な歩みに落ち着くが、そこからヴァイオリンが歌い出す第1主題の、うねるような暗美さと陰鬱な持続性。一転して救済の光が差し込むような第2主題の美しさ。その双方において、岡フィル弦楽セクションの放つ艶やかで強靭なソノリティが素晴らしい。高橋さんの奏でるホルンのソロも、切ないほどに柔らかい。
展開部に入ると、藤原コンマスのソロに導かれ、ヴァイオリン群が幻想的な弱音を紡ぎ出す。その北欧の霧を思わせるリリシズムに、私はかつて秋山さんの指揮で聴いたシベリウスの第2番の名演奏を強く想起させてくれた。秋山さんは、本当にこの岡山フィルというオーケストラの「音の引き出し」を、ここまで豊かに増やしてくれていたのだと、胸が熱くなる。
トランペットを筆頭とする金管楽器が吠え、チェロセクションがモットーを強靭に弾き鳴らした次に、その背後から地響きのように聴こえてきたのは、チューバが咆哮する『怒りの日』。そこから音楽は、運命の嵐が吹き荒れる劇的なクライマックスへと驀進していく。手持ちのスコアを見ると、音符が複雑に敷き詰められており、やっていることはほとんど現代音楽のそれである。しかし尾高さんは、決して力任せにせず、ポリフォニックな構造を明晰に整理し、しっかりとした構成感をもって統制していく手腕は流石である。
再現部に入り、それまで嵐の描写に徹していた木管陣が瑞々しく歌い始めるのを皮切りに、尾高さんのまるで蝶が舞うような、優美で雄弁な指揮に導かれてステージ上に描き出されたのは、圧倒的な「生命賛歌」であった。ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロが幸福な光を浴びながら、互いの音を慈しむように波打つ様は、多幸感に満ちていた。
そして何より、コントラバス、チェロ、チューバ、トロンボーン、ホルンを軸とした、低音弦と管楽器が完全に均質に溶け合った響きは、まるで巨大な大聖堂のパイプオルガンがフル・ストップで鳴り響いているかのような、「オルガン・サウンド」だった。この重厚極まるオルガン・サウンドが、高音弦の奏でる生命賛歌の背後から「後光」のように差し込み、ホール全体を物理的に震撼させた瞬間は、文字通り「」巻」の一言。長年この倉敷市民会館に通い、世界一流の来日オーケストラも聴いてきたが、このようなサウンドは聞いた事が無かった。このオルガン・サウンドは、この後も随所で効果的に響き渡ることになる。
しかし、至福の時間は長くは続かない。楽章の最後には無慈悲にも短調の世界へと引き戻される。ヴィオラ・セクションによる「ダカダーン!」という鋭利な弦の切り返しが、見事なプロポーションで場面転換を告げ、それまでの甘美な幸福感を一掃してラストへと突き進む。コントラバスの最後の一撃はティンパニが加わる解釈を取った。それは単なる強音ではなく、オーケストラ全体の低音をガッチリと補強していた。
続く第2楽章の出来栄えの見事さは、私がこれまでに実演で接してきたあらゆる「ラフ2」の中でもベストワンだった。リズムの冴え、切れ味、そして爆発的なエネルギーの表出は、壮絶だった。ロシア的な無骨さとスピード感を併せ持つスケルツォ楽章だが、尾高さんは拍節感をカッチリと決めた「楷書体」の堅牢な足取りで進める。そこから生み出されるキレッキレの疾走感には、まるで急逝された秋山さんの魂が乗り移ったかのような切れ味があった。打楽器セクション、とりわけチェレスタを担当された女性奏者が完全に音楽のグルーヴに乗っており、ティンパニとともにその躍動感がオーケストラ全体へと伝播していく。
全合奏(トゥッティ)が「バン!」と炸裂した後に急速なパッセージへと移行する局面、多くの録音や実演において、オーケストラがアンサンブルを維持できずにモタついたり失速したりしがちな難所なのだが、今日の岡フィルは一糸乱れぬ完璧な縦の線でクリアしていく。 そして、アッチェレランド(加速)から再現部へと文字通り乱入する瞬間の凄まじい音圧には、再びホールの2階席全体が物理的に震撼した。再現部で第2主題が戻ってきた際、弦楽セクションが仕掛けた濃厚なポルタメントによって音楽のギアが一段跳ね上がり、ステージの熱量はますます上がる。
しかし、この熱狂の楽章の最後、金管セクションによってあのモットーの変型版が、まるで死神の不気味なコラールのように意味深に響き渡る。この冷酷な伏線が引かれるからこそ、最終楽章での華々しいカタルシスへと繋がっていく。
第3楽章のアダージョは、間違いなく20世紀の交響曲が到達した、最も美しい祈りの音楽。しかし、この冒頭に置かれたクラリネットのあまりにも有名なソロ(実に2分に及ぶ)は、素人が鼻歌でなぞろうとしても到底息が続かないほど、構成の難しいフレーズ。2日後の東京公演でも目の肥えた聴衆から絶賛を博したという西﨑首席のクラリネット・ソロはは、倉敷でも神がかった美しさだった。そこに絶妙な距離感で絡み合うオーボエ、フルート、ファゴットの木管セクションの対話は、今日のハイライトであり、岡山フィルの演奏史に刻まれるべき名場面だと思う。それをデリケートなピアニッシモで静かに支え続けた弦楽器の集中力もまた、見事だった。
展開部において、抑えきれない情熱を吐露するように全弦楽器が濃厚なユニゾンで歌い上げる場面は、まさに壮絶を極めた。コントラバスと金管が鳴らすあの重厚なオルガン・サウンドが、再び大伽藍を現出させホールを震撼。そこへ、ポルタメントを限界まで効かせたヴァイオリン群の、胸を締め付けるような「泣き」の旋律が立ち上がっていく。
甘美極まる奇跡的な時間は、再現部でも途切れることなく持続する。フルートをはじめとする木管のオブリガートが弦のポリフォニーとしなやかに絡み合い、息ののむほどの美しさのまま最後のクライマックスへ。楽章の掉尾を飾るのは、ヴィオラ・セクションによる究極のピアニッシモだ。静寂そのものへと溶け込んでいくようなその響きに、岡フィル自慢のヴィオラ隊の並々ならぬ執念と集中力が垣間見える。思い返せば、この最後に消え入るような音階もまた、あの冒頭のモットーが形を変えた残照なのだ。 ふと我に返り時計に目をやると、皮肉にも当初の終演予定時刻であった17時をすでに指していた。まだまだクライマックスはこれからだ!
第4楽章は、これまでの全楽章に立ち込めていた暗雲を一気呵成に吹き飛ばす、歓喜と生命力に満ち溢れたグランドフィナーレである。尾高さんが自らの足で力強く刻むリズムの推進力に乗り、オーケストラはお祭りのような躍動感に満ちた三連符の刻みを徹底的に強調していく。 次に現れる第2主題(あの甘美極まる跳躍メロディ)が、豊潤な「オルガン・サウンド」を伴ってホールを満たした瞬間、私の涙腺は崩壊。なんと情感のこもった、人間味ある音楽なのか・・・と、視界が滲んで仕方がなかった。
展開部から再現部にかけて、あの執拗だった不安なモットーが再び不穏に頭をもたげるが、それらを文字通り薙ぎ払うように、過去の楽章の断片(第1楽章のモチーフや第3楽章の愛の残照)が万華鏡のごとく多層的に回想され、フルパワーで鳴り響くオーケストラの巨大な波が、すべての憂鬱を歓喜へと塗り替えていく。
理屈抜きに、本当に、心の底から感動していた。この曲に出会ってから色々な人生の局面で聴いてきた。大袈裟でなく何百回と聴いたのではないだろうか。しかし、これほどまでに温かく、血の通った人間のぬくもりを感じさせる演奏には、未だかつて出会ったことがない。
最後に、この楽章の圧倒的な熱量を文字通り牽引していた、ティンパニの近藤さんの鬼気迫るパフォーマンスを忘れないわけにはいかない。この楽章において、ティンパニがこれほど頻繁にマレットを持ち替えてるとは、今日の実演を見るまで気づかなかった。ビートの切れ味を強調する際の硬質なマレット、オーケストラの重低音の底を支える際のフェルト付きの柔らかなマレット…その使い分けはもとより、打点へのタッチ、振り下ろしのストロークの軌道にいたるまで、千変万化のニュアンスが施されている。途中からは、彼の無駄のない完璧なバチさばきから一瞬たりとも目が離せなくなってしまった。
圧倒的な推進力を維持したままなだれ込んだコーダにおいても、岡山フィルのアンサンブルは乱れることは無かった。金管セクションの強奏と、近藤さんによるティンパニの凄絶な連打が炸裂し、輝かしいホ長調の大音響とともに、壮大なドラマは完璧な大団円を迎えた。
会場が満席であるかと錯覚するほどの、嵐のような拍手がホールを包み込んだ。
カーテンコールに応えた尾高さんがアンコールに選んだのは、急逝された秋山和慶さんへの献奏となる、エルガーの『エニグマ変奏曲』から「ニムロッド」であった。 これこそが、岡山フィルが長年培ってきた濃厚で、どこまでもヒューマンなサウンドのすべてを全開させた。秋山さんがこのオケに遺した功績、そしてお人柄が思い起こされ、涙が止まらない。
私は、敢えてここでこう表現したい。この日のコンサートで、秋山さんはミュージック・アドヴァイザーとしての任期を全うされたのだ、と。そして今後も、名誉ミュージックアドヴァイザーとして優しく見守り続けてくださるに違いない。秋山さんの急逝以来、私の心の中にずっと澱のように残っていたあの重い「欠落感」は、今日という日の見事なカタルシスによって、美しく解決された。

会場を去ってからも、余韻を長く脳内に留めておきたかったので、車のカーステレオの電源は切ったまま、無音の車内を運転して帰路についた。しかし、運転中も交響曲第2番のあの第3楽章のアダージョが、何度も頭の中でリフレインし、自分の頬を熱いものが伝うのを感じていた。
この2日後に行われた東京公演は、チケット完売の大盛況となり、集まった目の肥えた聴衆や鋭い評論家たちからも、文字通りの「絶賛」を博したようだ。