指揮にオーボエ独奏に、獅子奮迅の活躍を見せたシェレンベルガー、当然、今回のコンサートの主役ではあるのだが、オーケストラの奏でる音も本当に素晴らしかった!
シェレンベルガーさんが岡山フィルの首席指揮者に就任したとき、「私の経験をすべて、この岡山のオーケストラに注ぎたい」と仰っていて、シェレンベルガーと岡山フィルの6年間の足跡を見てきたファンとしては、まさに有言実行をしてくれていることは重々、わかっていたのだが、今日は、シェレンベルガーという偉大な音楽家が、岡山フィルに情熱を注いで、それが花開こうとしていることに、心の底から感動を覚えた瞬間だった。
会場は7割ぐらいの入りだろうか。今回はいつもより若干少ない印象。配置は、1曲めのモーツァルトは、10-9-8-6-5のストコフスキー(ステレオ)配置。ティンパニはチェロの後ろに付ける密集隊形。アンサンブルの一体化を狙っての配置だろう。
1曲めのモーツァルトの「プラハ」は、個人的に思い入れが深い曲。僕がはじめてヨーロッパの一流オーケストラを聴いたのがこの曲で、そのオーケストラというのが、全盛期の最後の時代(ノイマン時代)のチェコ・フィルだったのだけれども、その美しくも官能的で、なんとも言えない味わいのあるサウンドを聞いた瞬間、背筋から額にかけて、電気のような衝撃が走ったことを、今でも鮮明に覚えている。
シェレンベルガーのモーツァルトの交響曲は40番、41番に続いて3曲目になるが、40,41番がベートーヴェンやブラームスへとつながる 絶対音楽としての交響曲の雰囲気があるのに対し、39番までの交響曲は、まるで声楽なしの「シンフォニック・オペラ」といってもいいような雰囲気で、同じシェレンベルガーの指揮で生演奏で聞き比べて、その思いを一層強くした。これぞオーケストラの会員としてコンサートに通う愉しみの一つだと思う。
その、第1楽章は、オペラの序曲やバロック時代のシンフォニアを思わせる。冒頭のブルルン、というグリッサンドの音からして、魅力的だった。これはもう中欧のオーケストラの響きだ。テンポは早め(といっても昨今の演奏のトレンドは、このぐらいのテンポかも)。通常、のっけからシンフォニーだと、暖機運転のような演奏になってしまいがちだが、はじめからとてもいい音が出ているし、奏者も指揮者もノッている。表現としてはシェレンベルガーらしい、音の切れ味を重視したキビキビとした表現が主体。中間部のフーガの掛け合いの部分を聴いていると、「楽章単位で聴くと、モーツァルトの交響曲の中でも41番の第4楽章に並ぶ最高傑作だ」との思いを強くする。そんな切れ味するどい中にも、歌わせる場面ではレガート気味に歌わせる。木管のアンサンブルもとても良い。ああ、聴いていて心地が良い。
驚いたのは、楽章最後のオクターブが上がって、ヴァイオリンが奏でる「泣き」が見事だったこと。その瞬間、シェレンベルガーがヴァイオリン・パートの方を見て、笑みを浮かべていたのを僕は見逃さなかった。「いったい、いつから岡山フィルはこんな音を出せるようになったのか」と感じ入った瞬間。
第2楽章はまるで舞台の左右から歌手が出て来て第一幕が始まりそうな雰囲気だ。シェレンベルガーは、オペラの演奏会形式を岡山フィルの重要なレパートリーとして取り組んでいるが、そういった思想がこの指揮から感じられる。楽器の歌わせ方や間のとり方が絶妙で、様々なニュアンスを表現するオーケストラも見事。
第3楽章は、丁寧さんの中にもとても勢いのある演奏。この楽章に限らないが、低音弦の切れ味がモーツァルト独特の疾走感を演出する。谷口さんはじめコントラバスセクションがいい仕事をする。
まったく1曲めから見事な演奏になった。
R.シュトラウスのオーボエ協奏曲は、6-5-4-4-2に刈り込んだ編成。プレトークでは「この曲は指揮者が居なくても演奏できる」とシェレンベルガーさんは仰っていたけれども、いやあ、偉大なるマエストロに物申すわけではないが、この曲、アンサンブルを創っていくのは相当難しいじゃないかと思う。特にソロを取ってオーボエ独奏に絡んでくる木管は相当に難しい。
まずもってシェレンベルガーの独奏が美しすぎて美しすぎて、そして美しいだけでなく、なんと心に響く音だろうか。この曲自体、ロマン派の最後の黄昏の瞬間の輝きとも言うべき独特の美しさを持っているが、いやあ、これはもうこの世のものとは思えない世界だ。何度も目頭をハンカチで拭った。
オーケストラの伴奏も素晴らしかった。シェレンベルガーとの協奏曲演奏の中でダントツに良かった。クラリネットの西崎さんを始めとした、オケ・メンバーとの掛け合いを、会場皆が楽しんでいる光景。ああ、いいなあ。こういう雰囲気。
そして、メインは演奏時間こそ短いものの、ロマン派の王道にして、彫りの深い表現が求められるブラームスの第3交響曲。自分にとっては中学生の時に特によく聴いていた曲で、悩みの多かった時期に寄り添ってくれる曲だと思っていた。ところが不惑を越えた今でも、とても味わい深く、勇気づけ、寄り添ってくれる曲だと感じる。
12-10-8-6-6という編成で、トロンボーンセクションは岡山フィルは未整備のため客演に頼る。曲の入り方はシェレンベルガー流。この曲は生演奏で、10回は聴いてきたと思う。冒頭の2音のあとの下降音階のテーマで力を込める演奏(時には、この冒頭でマックスのテンションの演奏もあり)が多い。数年前、同じ岡山フィルで三ッ橋さんが振ったときもそうだったが、そうなると往々にして、この楽章が持っているしなやかさや内省的な一面がスポイルされる結果を招くことが多い。しかしシェレンベルガーはそういったアプローチを取らず、冒頭はあくまで提示部としてとらえ、オーケストラから力みの無いしなやかな音を引き出す。このアプローチはベートーヴェンの5番交響曲の時もそうだった。
曲が進んでいくなかで自然な流れの中に、重心の低い音楽がうねるように展開していく。劇的なドラマと、ブラームス独特の寂寥感・翳りを内包しながら、各パートの掛け合いによって力強い推進力で有機的に昇華していく。管楽器の充実っぷり、そしてそれが弦楽器と掛け合い、溶け合っていく。第2楽章は切ないほどの美しさだった。楽章が終わっても余韻が漂い、この静寂をも演奏の一部にしてしまうのは、もうこれは本物だと思った。
第3楽章は過度にロマンティシズムに酔うようなことはなく、スッキリとした、それでいて深く味わえるような音楽に仕上げた。中間部の訥々とした語りっぷりが印象に残る。ここ数年で弱音の場面の表現が巧みになったと感じる。キモとなるホルンとオーボエの掛け合いも見事。ホルンの梅島さん、山陽放送のドキュメンタリーでは、愛嬌のあるニクめない性格で、失敗を重ねながら温かく見守られるキャラとして描かれていたが、彼は相当に腕の立つ奏者だ。技術が安定していて安心して聴ける。演奏が難しいこの楽器は、プロでもハラハラするような危なっかしさを感じることもあるが、そうした心配は彼には無用だ。
第4楽章こそ、シェレンベルガーが火の玉となって導き、この曲で最高の見せ場を見せてくれた。木管陣は、まるで10年ぐらいアンサンブルを組んでるんじゃないかと思うほど緊密に連携し、トランペット。トロンボーンはかなり協力に鳴らした。迫力は相当なもので、ホール一杯にゲルマンの血が騒ぐような激しくも整ったアンサンブルを響かせた。
それにしてもトロンボーン陣はかなり強力だった。
シェレンベルガーの首席指揮者としての3期目の最初のコンサートだったが、この調子で演奏改革が進み、楽団の体制強化が図られれば、20年後には国内有数のオーケストラになるのも夢ではないと、本気で思わされる。そんなとても充実したコンサートだった。
岡山フィルの演奏は、どの曲もよく作り込まれていて、オーケストラの実力が相当ついてきていることを実感させる。山陽新聞に後日掲載された記事によると、フォアシュピーラーに座っていたコンミスの近藤さんの声として、楽団員もとても手応えを感じたコンサートだったようだ。